2011年4月17日日曜日

石井ゆかりさんの「牡羊座」買っちった。

丁度この時期に図書券を貰ったので、石井ゆかりさんの「牡羊座」買ってみた。

「ああ、わりと合ってるな~」と思って、姉さんに「私の取扱説明書」と言って渡してみたら、「書いてあること全部、お前。何これギャグ本?」ってゲラゲラ笑われた。
「そこまで?!」と思ったけど、どうやらそうであるらしい。


「行動パターン」や「落ち込んだとき」の章は、自分でもとても参考になった。
落ち込んだとき、自分でも不安になるくらいドン底まで落ち込んで、どうしようもなくなるけど。これ牡羊座の性質だから仕方ない。そしてちゃんと復活できるから大丈夫。
それが分かれば、安心して底まで落ち込める。中途半端は気持ち悪いのだ。


そして、自分はかなりのネガティブ思考だと思っていたけど。
牡羊座としての観点から言えば「自分の実感が全てであり真実」だから、
悪い実感の割合が多ければネガティブに片寄るってことなんだな。てことは良い実感を増やせばバランスがとれるはずだ。


や?当たり前のことか。でもいつも当たり前のことを忘れて、できなくて、気苦労を積み上げているのだ。しょうのない。


うん、なかなか面白かった。



2011年4月9日土曜日

水戸で、

3月末に水戸に帰ってきた。
地震の影響を見た。色んな話も聞いた。
上手く文章にまとめようと思ったのだけれど全然まとまらない。
だから、まとまってない文章で書いてみる。


高速バスで帰ったのだけれど、高速道路はかなり直っていて「さすが土建王国・茨城」と思った。
水戸駅もホームが崩れたりしていたけれど、4月には鉄道も開通している。駅ビルやマルイは閉鎖されてて、駅前のペディストリアンデッキも通行止めになっていたけれど。
梅祭り真っ盛りだったはずの偕楽園はあちこち崖崩れが酷いらしくて閉園になっていた。隣にある常磐神社には入れたけれど、大きな石灯籠が軒並み横倒しに崩れたままになっていた。


他の神社では鳥居の倒れたところもいくつかあった。
屋根瓦の落ちた民家もかなりあって、ブルーシートが掛けられていた。聞いた話では、新築の家が全壊したなんて所もあったらしい。オール電化の家は停電中にガスが復旧しても火が使えずに困ったという。
前に働いていたコンビニでも、道路に面したガラス面がヒビ割れして全て入れ替えしたと言っていた。ビン類も相当数落ちて、新しく入荷した分は箱に入れたまま床に置かれていた。水の購入も一人一本に制限されていた。
水戸市内ではガソリンスタンドはわりと開店していて、まだ閉店したままのスタンドは貯蔵タンクが壊れているからだと聞いた。


親戚には農家をしている人もいる、母の知り合いにも農家の人がけっこういる。
出荷制限を受けたホウレン草農家の人は「ご自由にどうぞ。ただし何かあっても責任は負いません」と畑に張り出したところ、1時間で畑一面のホウレン草がキレイサッパリ消えたそうだ。
風評被害で米が返品されてきたという話もあった。米は去年とれたもの、建物の中で保存されて、精米され、袋詰めされている。何の問題もないのに、と。
むしろ、今年の米が作付けできるかどうかの方が問題だと言っていた。野菜はハウスで雨風を避けることができるけれど、米はどうしても雨風に曝されてしまうから。
関東・東北一円で米が作付けできないようなら、年末から来年そしてそれ以降も米不足と米の値上がりは避けられない。備蓄米だって支援物資として放出されているだろうから。
魚に関しては、まだ今は問題ないけれど。食物連鎖というものがある。イタイイタイ病や水銀の問題と同じで、長い時間を掛けて蓄積されていく。それが、これからの問題。


南相馬は父の実家のある土地。向こうの親戚たちは無事だけれども、みんな方々に避難していった。
祖母たちのお墓もお骨も位牌も流されたと聞いた。実家の家も骨組みだけ残して中身は全て津波に浚われたと。伯母はもう帰る気はないと話しているようだ。
原発事故で立ち入り禁止になった区域では、被害者の遺体の収容作業もできず放置されている。東北では地震から1週間後に救助された人たちがいたが、原発周辺地域では生存者がいたとしても見殺しにされた。そういう話を聞いた。


それでも、あの塔が倒れなくて良かったと思う。建ったばかりの頃はあまり好きじゃなかったんだけど。ニュースであれが映れば水戸だとすぐわかる。


そして、人事に関係なく、花は咲き、実り、子は生まれ、季節は移り、地球は生きてる。私は自分が核物質や原子力、放射能などのこと、どれだけ無知だったかを痛感する。
うん、but...Life goes on。


2011年4月6日水曜日

掴んだもの

昔話から始めよう。
昔々、私は軽さを求めていた。
紙のように薄く、ガラスのように透けるほど、塵芥のように軽い、風のような生き方。
飄々と生きているように見られていたから、表面的には成功していたんだろう。でも「求めている」ということは、本当には手に入れてないということ。記憶とか、感情とか、変なプライドとか、ルールとか、常識とか、いろんなものが重石になって、振り解けずに繋がれている感じがとても嫌だった。


時々ふと頭をよぎる「諦めて心を殺そうか?諦めて体を殺そうか?」などという択一を日常生活の中で濁して生きている内に、選ぶより先に心がパンクした。粉々に散らばった心を前に精神は自失して、脳に刻み込まれたルーティンがただ体を動かし続けていた。精神が停止していても、それまでのプログラム通りに体が機能していれば誰も何も気付かない。
相変わらずの日常を人前で動き一人になると指一本も動かずに、目を開けたまま、あるいは目を閉じて眠っていた。そんな風に木のように貝のように生きている人間は、ゾンビだった。そりゃそうだ。人の目に入らなくとも、木は木同士、貝は貝同士でちゃんとコミュニケーションとって生きているのだから。人は木にも貝にも、なれない。


そんな日々を過ごしていたある日、
目を開けたままの微睡みの中、
心臓の音が聞こえた。
ザクザクと血液を送り出す音。
しばらく耳を傾けて、
そして、ふと目の前に手をかざして見た。
「この体この細胞は死にたいなんて微塵も思ってないんだな」
と思った。
「なら死ぬまで生かしてやらなきゃいけないな」
と思った。
「でも今までの自分じゃ生きられないな」
と思った。


丁度良く自失状態だったので、どちらにせよ「生きる」には「自分」を拾い集めていかなければならなかったから、どうせなら生き易い自分を新しく組み上げようと思った。
名前、誕生日、家族、友人、と拾い集めていった。最初に拾うか捨て置くか迷ったのは「書くこと」「考えること」だった。いっそ自分の持っている全ての筆記用具も本も捨ててしまおうと思った。書かず、考えず、生きれば楽だろうと思った。思ったそばからそれを書き留めている自分を発見して、どうも無理らしいと思い直した。後日、山田ズーニーさんの「考えない不自由」に関する文章を読んで、「考える自由」の方を拾った。


生き易い生き方を求めて、本を読み漁った。自己啓発本もスピリチュアルも哲学も宗教書も心理学も、真面目なのも怪しげなのも、学術書も漫画も。挙げ句「どの本も言ってることは大して変わらない」と感じ始めた頃、クリシュナムルティとフランクル博士の本に出会い、この手の本を集中的に読むのはこの2人の著書で打ち止めになった。


世界の見方、認識の仕方が変わったことで、今の自分はだいぶ生き易くなったと思う。


そしてそんな記憶も薄くなってきた頃、311・今回の地震がきた。
ゆっさゆっさと揺れるアパートの中に一人で、「アパートが崩れたら」と思ったら「死ぬかな」と続いた。どんどん強くなる揺れと一緒に「死ぬ?」「生きる?」の間を心が迷走して、ためらいながら「助けて」を掴んだ。
後で冷静になった頃、「ああ、やっぱり結局、生きる方を選ぶんだなぁ」としみじみ感じた。
きっとこれからも、死ぬまで「生きる」方を掴んでいくんだろうなぁ、と。


じゃあ、どうしよう?と考える。
これまでは、それでも少し投げやりな気持ちを拭えずに「いつ死んでもいいや」と思っていた。でも体や脳の根っこの部分で結局「生きる」を掴んでしまうなら、厭世的な意識も諦めが肝心だ。
前回は生き易さを求めて、世界の見方を変えた。
「今回は?」と自問したら、「悔いのなさ」と自答が返った。
「いつ死んでもいい」のレベルを上げて、「いつ死んでも満足」に生きる。
かなりハードルが高い。きっと何度も忘れては、取りに戻る言葉になる。けど、そういう風に生きたい。


今日、だから書く。忘れないように。