2年前の311の日から、少し考えてきていたんだけど。
浅いながら、思いついたアイデアがある。
大きな施設で大きく電力を賄うというのは、そのぶん大きなシワ寄せもあって。
処分先の決まらない核廃棄物であったり、村ひとつ潰して作る巨大ダムであったり、枯渇しかけている石油や天然ガスであったり。
そういうのは、できたらもういいかな、という思いがあって。
マイクロ水力であるとか、太陽光発電であるとか、R水素であるとか。
技術的にはいろいろたくさんの方法が既にあって。そういう小さな方法を複数組み合わせて使えるようになっていったらいいんじゃないかなぁ、と思っている。
で、思いついたアイデアなんだけど。
そんな地産地消的な発電方法の一つとして、人力発電があってもいいんじゃないかとぼんやり思っているんだ。
電車の乗降でも発電ができるくらいなら、もっと効率よい発電技術と蓄電技術を開発できたら、人間が集中的に体力使って発電したら、エコでクリーンで、雇用も作れていいんじゃないかなぁ。お金はかかるだろうけど、原発にかかるコストと同じくらいの金額使えたら十分賄えそうじゃない。
都市でも発電できるようになるし。地方でも24時間稼働の工場に派遣労働しに行く人もいるくらいだから、募集したら人集まるんじゃないかなぁ。
なんてさ。
穴だらけのアイデアというか単なる思いつきをちょっと言ってみただけだから、難しいこと突っ込まれても困っちゃうんだけど。
今日、エイプリルフールだし、大目に見てもらえると嬉しい。
2013年4月1日月曜日
2012年12月29日土曜日
愛情表現について考えてみた
2012年最後の更新に、ふと思いつたことを書き置いておこうと思う。
まだ浅い考察だけれども。
愛って、いうもの。
私は一つのエネルギーの形や一つの方向性を持つものとして認識しているけれども。
その愛を伝える愛情表現となると、十人十色・千変万化、それぞれの人の数だけある。
だから、どうやったて人は自分なりのやり方でしか愛を表現できなくて、愛せなくて。
また、自分の方法を愛として認識しているから、ほかの人のやり方が愛として認識できなかったり、受け入れられなかったりする。
だけど、みんな自分の愛情表現をたくさんの人に受け入れてほしいと思ってるんじゃないだろうか。
でも、どんな表現でもたくさんの人に伝えるとなると技術や経験が必要になってくる。
それは愛情表現も例外じゃないと思う。
そのために、親だったり、兄弟だったり、友人だったり、子供だったり、恋人だったり、奥さんだったり、旦那さんだったり、といった安心できる人たちを相手に、自分なりの愛情表現を試行錯誤して練習して学んでいくのだと思う。お互いに試行錯誤して学びあっているのだと思う。
たくさんの人の表現方法を知ったり、自分の表現方法の稚拙な部分と正面から向き合ったり、心痛めたり温めたり、を繰り返して磨きをかけて。
そうして表現方法を洗練させていって、よりたくさんの人とつながったり、たくさんの人に届けたりできるようになるんじゃないだろうか。
一人では、一足飛びには、行けないんだろうと思う。
そして無頓着でいれば、子供の表現方法しか知らないまま大人になってしまうのだろう。
そんなことを考えてみた年末でした。
それでは今年はこれまで。皆さま、良いお年を。
まだ浅い考察だけれども。
愛って、いうもの。
私は一つのエネルギーの形や一つの方向性を持つものとして認識しているけれども。
その愛を伝える愛情表現となると、十人十色・千変万化、それぞれの人の数だけある。
だから、どうやったて人は自分なりのやり方でしか愛を表現できなくて、愛せなくて。
また、自分の方法を愛として認識しているから、ほかの人のやり方が愛として認識できなかったり、受け入れられなかったりする。
だけど、みんな自分の愛情表現をたくさんの人に受け入れてほしいと思ってるんじゃないだろうか。
でも、どんな表現でもたくさんの人に伝えるとなると技術や経験が必要になってくる。
それは愛情表現も例外じゃないと思う。
そのために、親だったり、兄弟だったり、友人だったり、子供だったり、恋人だったり、奥さんだったり、旦那さんだったり、といった安心できる人たちを相手に、自分なりの愛情表現を試行錯誤して練習して学んでいくのだと思う。お互いに試行錯誤して学びあっているのだと思う。
たくさんの人の表現方法を知ったり、自分の表現方法の稚拙な部分と正面から向き合ったり、心痛めたり温めたり、を繰り返して磨きをかけて。
そうして表現方法を洗練させていって、よりたくさんの人とつながったり、たくさんの人に届けたりできるようになるんじゃないだろうか。
一人では、一足飛びには、行けないんだろうと思う。
そして無頓着でいれば、子供の表現方法しか知らないまま大人になってしまうのだろう。
そんなことを考えてみた年末でした。
それでは今年はこれまで。皆さま、良いお年を。
2012年12月10日月曜日
高砂淳二さん写真展・二本立て
もうだいぶ経っちゃったけど、月初めの頃に高砂淳二さんの写真展を見に行ってきた。
ひとつは新宿のコニカミノルタプラザで開催されている、
特別企画展「そら色の夢」
色とりどりの空の写真や映像作品が展示してあった。
ユウニ塩湖で撮影された、空を鏡写しにした写真は不思議な美しさで。
何より見たかった大きな星空の写真パネルは、空と塩湖に広がる星粒が、まるで宇宙に放り出されたみたいな浮遊感。とても好きな感覚。
高砂さんの写真の色彩は本当に、写真に切り取られても、その空間にあった情報をほとんど損なわずに保っているように思える。エネルギーのようなものを。
見に行った日はトークイベントがあったので拝聴したら、なんだか不思議な気分になった。
高砂さんは虹をテーマに追いかけて世界中を旅しているせいか、現地のネイティブの人たちと出会うことが多いようで。話の中にもネイティブハワイアンやネイティブアメリカン、ネイティブカナディアンの人たちが出てきて。
昔からネイティブアメリカンに興味を持って本を読んだりしてきたけれど、最近はすっかり縁遠くなっていたことに思いがけず気付かされた。写真や高砂さんに興味を持ったのは全く自分にとって新しい流れだったはずなのに、こんなところで昔の自分の流れに再会したことに驚いた。
高砂さんの写真には自分の根っこに触れる何かがあるのかもしれないな。
もうひとつは、もうおわってしまったけれど、京橋にあるISLAND GALLARYで開かれていた、
ベストセレクション写真展「夜の虹の向こうへ」
こちらは新しく発売されたエッセイ集「夜の虹の向こうへ」に合わせて開催されたもので、私はこの本をコニカの方で買ってサイン貰ってきた。正月に実家に帰った時に、じっくり読むつもり。
ここで一番魅かれた写真が、大きな木の写真だった。
パネル自体は小ぶりのものだったけれど、木の大きさはかなりのものに思えた。ほんとに木ってすごい生き物だなと思う。
夜の虹はハワイでは「最高の祝福のしるし」と言われているらしい。
私にも祝福のお裾分けがあるかな。そして運んでいけるかな。つぎへ、そのつぎへ。
ひとつは新宿のコニカミノルタプラザで開催されている、
特別企画展「そら色の夢」
色とりどりの空の写真や映像作品が展示してあった。
ユウニ塩湖で撮影された、空を鏡写しにした写真は不思議な美しさで。
何より見たかった大きな星空の写真パネルは、空と塩湖に広がる星粒が、まるで宇宙に放り出されたみたいな浮遊感。とても好きな感覚。
高砂さんの写真の色彩は本当に、写真に切り取られても、その空間にあった情報をほとんど損なわずに保っているように思える。エネルギーのようなものを。
見に行った日はトークイベントがあったので拝聴したら、なんだか不思議な気分になった。
高砂さんは虹をテーマに追いかけて世界中を旅しているせいか、現地のネイティブの人たちと出会うことが多いようで。話の中にもネイティブハワイアンやネイティブアメリカン、ネイティブカナディアンの人たちが出てきて。
昔からネイティブアメリカンに興味を持って本を読んだりしてきたけれど、最近はすっかり縁遠くなっていたことに思いがけず気付かされた。写真や高砂さんに興味を持ったのは全く自分にとって新しい流れだったはずなのに、こんなところで昔の自分の流れに再会したことに驚いた。
高砂さんの写真には自分の根っこに触れる何かがあるのかもしれないな。
もうひとつは、もうおわってしまったけれど、京橋にあるISLAND GALLARYで開かれていた、
ベストセレクション写真展「夜の虹の向こうへ」
こちらは新しく発売されたエッセイ集「夜の虹の向こうへ」に合わせて開催されたもので、私はこの本をコニカの方で買ってサイン貰ってきた。正月に実家に帰った時に、じっくり読むつもり。
ここで一番魅かれた写真が、大きな木の写真だった。
パネル自体は小ぶりのものだったけれど、木の大きさはかなりのものに思えた。ほんとに木ってすごい生き物だなと思う。
夜の虹はハワイでは「最高の祝福のしるし」と言われているらしい。
私にも祝福のお裾分けがあるかな。そして運んでいけるかな。つぎへ、そのつぎへ。
2012年1月4日水曜日
2012ねーん
明けてからだいぶ経ちまして、おめでとうございます。
今年も、きっとみんなのお世話になることと思います。
よろしくお願いします。
(あちらへ、そちらへ、こちらへ、一礼)
去年は細々と始めてみたことがあり、そっちをどういう形に育てていこうか思案中。
おかげで飆庵は放置気味になってしまったので、今年は「飆庵の更新もマメにしていこう計画」と「飆庵カオス化計画」を練りつつ。
定期的な更新を継続するものばかりなので、書き物マラソン的な一年にちゃんとなるように頑張ろう自分、無理なく小さくコツコツと積み上げていこう。
それからシューカツも地道に、ぺちゃんこになっていじけるだろうけどアメーバみたいにゆるゆると抜け出しながら、合流できるところを探そう。
近頃思うのは、できることは一つだけじゃないということ、やりたいことを一つだけに絞る必要はないということ、全部欲しいって言っても良いってこと。
体は一つしかないから一本道しか進めないとしても、行ってみたい小道が複数あるなら全部を束ねて大道にして進んだっていいよね。
みんなの計画もひとつひとつ実現の芽が出ますように。
猫の手や文殊の知恵が要るなら貸し合えますように。
いいこともわるいことも大晦日には笑い飛ばせるような一年でありますように。
今年も、きっとみんなのお世話になることと思います。
よろしくお願いします。
(あちらへ、そちらへ、こちらへ、一礼)
去年は細々と始めてみたことがあり、そっちをどういう形に育てていこうか思案中。
おかげで飆庵は放置気味になってしまったので、今年は「飆庵の更新もマメにしていこう計画」と「飆庵カオス化計画」を練りつつ。
定期的な更新を継続するものばかりなので、書き物マラソン的な一年にちゃんとなるように頑張ろう自分、無理なく小さくコツコツと積み上げていこう。
それからシューカツも地道に、ぺちゃんこになっていじけるだろうけどアメーバみたいにゆるゆると抜け出しながら、合流できるところを探そう。
近頃思うのは、できることは一つだけじゃないということ、やりたいことを一つだけに絞る必要はないということ、全部欲しいって言っても良いってこと。
体は一つしかないから一本道しか進めないとしても、行ってみたい小道が複数あるなら全部を束ねて大道にして進んだっていいよね。
みんなの計画もひとつひとつ実現の芽が出ますように。
猫の手や文殊の知恵が要るなら貸し合えますように。
いいこともわるいことも大晦日には笑い飛ばせるような一年でありますように。
2011年8月28日日曜日
岡本敏子さんという人
「明日の神話」を見にいったブログを書いて以来、それまで全く興味なかった、むしろ苦手だった岡本太郎という人に、興味が湧いた。そして本を読んだりドラマを見たりしている内に、だんだん岡本太郎さんよりも岡本敏子さんに興味が移ってきた。
なので図書館で本を借りてみた。
「恋愛について、話しました。」
岡本敏子さんとよしもとばななさんの対談集。
彼女の著作ではなく対談集を選んだのは、対話の形式の方が根本思想があらわれやすいだろうと思ったからだ。表に出る、その人となりを見てみたかったから。そして、一番新しい本のようだったから。
読んでみて、なんて自由な人なんだろうと思った。
「恋愛について」話しているのにもかかわらず、いわゆる女子バナにはならないカラッとした爽やかさ。そのじめついたところのない自由な真っ直ぐな気風が気持ちよかった。彼女の型にはまらない生き方がやはり興味深かった。
読んでいて心に残ったのは、「恋愛」とは全然関係ないことだけど。
おかしいものは「おかしい」と、嫌なものは「嫌」と、違和感は「違和感」と言っちゃっていいんだ。遠慮もいらなければ、理解さえいらないんだ。
ってこと。
それは、時々酷く恐ろしく感じること。拒絶を恐れて遠慮して、理解を求めて無理解を恐れる。それでも、自分に見えているものを聞こえているものを表現していいんだ。と思えた。
「いいのよ」と言う、あっさりした声が本から聞こえてきそうだったもの。実際に聞いてみたかったな。会って話してみたかった。そう思う人が一人一人と増えていく。
(今ふと思ったのは、理解と共感は別のものかもしれないってこと。理解の反対は無理解、共感の反対は無関心?それとも反感?愛の対義語は無関心だったか。じゃあ、愛と共感は近似のものなのかな。正しい理解を手放して、相手の感受に委ねること。前にもそんなこと書いた気がする、、、そうだ「bridge」のときだ。知識による解剖的な理解は「分断」だろうか。共感は既知に起因する全的な受容だろうか。太郎さんとクリシュナムルティは似ているかもしれない。・・・・・・ヘリクツ失礼)
なので図書館で本を借りてみた。
「恋愛について、話しました。」
岡本敏子さんとよしもとばななさんの対談集。
彼女の著作ではなく対談集を選んだのは、対話の形式の方が根本思想があらわれやすいだろうと思ったからだ。表に出る、その人となりを見てみたかったから。そして、一番新しい本のようだったから。
読んでみて、なんて自由な人なんだろうと思った。
「恋愛について」話しているのにもかかわらず、いわゆる女子バナにはならないカラッとした爽やかさ。そのじめついたところのない自由な真っ直ぐな気風が気持ちよかった。彼女の型にはまらない生き方がやはり興味深かった。
読んでいて心に残ったのは、「恋愛」とは全然関係ないことだけど。
おかしいものは「おかしい」と、嫌なものは「嫌」と、違和感は「違和感」と言っちゃっていいんだ。遠慮もいらなければ、理解さえいらないんだ。
ってこと。
それは、時々酷く恐ろしく感じること。拒絶を恐れて遠慮して、理解を求めて無理解を恐れる。それでも、自分に見えているものを聞こえているものを表現していいんだ。と思えた。
「いいのよ」と言う、あっさりした声が本から聞こえてきそうだったもの。実際に聞いてみたかったな。会って話してみたかった。そう思う人が一人一人と増えていく。
(今ふと思ったのは、理解と共感は別のものかもしれないってこと。理解の反対は無理解、共感の反対は無関心?それとも反感?愛の対義語は無関心だったか。じゃあ、愛と共感は近似のものなのかな。正しい理解を手放して、相手の感受に委ねること。前にもそんなこと書いた気がする、、、そうだ「bridge」のときだ。知識による解剖的な理解は「分断」だろうか。共感は既知に起因する全的な受容だろうか。太郎さんとクリシュナムルティは似ているかもしれない。・・・・・・ヘリクツ失礼)
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