2009年10月10日土曜日

受け入れる力

先週・今週・来週とズーニーさんの「おとなの小論文教室。」で興味深いテーマを扱っている。


Lesson461~463 どうにもならないものを受け入れる力


先週・今週と読んでみて思い出したのは、フランクル博士の態度価値。
あらゆる自由を奪われた状態においても、唯一誰にも奪うことのできない自由。状況に対して態度をとるという自由。


でも、それは決して理屈では行えないものだと思う。
理屈で納得することを選ぶのも自由ではあるのだけれど、本来の自由ではない。理屈で心を束縛することを選んだだけであって、心を解放するものではないから。


最近の心境の変化から思うのは、「仕方がない」という理屈は断罪的だ、ということ。自分も相手も世界も、一刀両断にする。自分すら許せず、誰も救われない。
でも、認識が変わるだけで見えている世界が一変する、ということを私は知っている。正確には、認識が変わるというより、認識を実感に合致させる、という方が近いかもしれない。


実感というものは必ずしも、常識的でも一般的でもなければ大人らしくもない。
例えば「常識的に考えてその場面では怒るのが普通である」という時に、笑い出してしまうというナンセンスをしでかしたりする。でも、そこで笑わずに怒りだしたら、本来の実感の欲求が満たされないフラストレーションでますます怒りに油を注ぐだろう。
経験や常識・知識・感情によるフィルターが実感と認識を乖離させれば、フラストレーションはいつまで経っても解消されずに蓄積され続けていくだろう。


実感が導く自分だけの答え・自分だけの解は、これまでの認識の対極にあるものだったり、子供じみていたり、体が訴える体感だったりする。
それはもう、びっくりする答えが素直に自分の中から紡がれ、それに心底納得する。他人が知ったらおかしいと思うような答えだったとしても、それは自分を生かす答えだから。その答えで、心の痛みは消えているし、▼の形のようにフワフワと不安定でもっと軽く・もっと希薄になりたいと願っていた心が、▲の形のように地に足の着いた安定した重力を心が感じるようになっている。
それでいいと思える。
過去もまた、どうにもならないものの一つ。しかし、それさえ心一つで解き放てる。


受け入れたのは客観的な事実ではなく、自分が生き延びるための主観的な答えだった。


ズーニーさんがこのテーマをどのように締めるのか、楽しみだ。