2011年2月21日月曜日

原風景

原風景(げんふうけい)とは、人の心の奥にある原初の風景。懐かしさの感情を伴うことが多い。また実在する風景であるよりは、心象風景である場合もある。個人のものの考え方や感じ方に大きな影響を及ぼすことがある。また、しばしば原風景は美化されたり、自らが都合のいいように変化していたりする。
Wikipediaより




「子どもの頃に見た風景がずっと心の中に残ることがある。いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立った時、人の言葉でなく、いつか見た風景に励まされたり勇気を与えてられたりすることがきっとあるような気がする。」
星野道夫


ツイッターのタイムラインにこの言葉が流れてきた時、思い出した景色がある。
森の中で一人切り株に座っている子供の頃の自分だ。
ひとかけらの不安もなく、降り注ぐ緑の光と風に一人遊ぶ。
ただ、そこが何処なのか私は知らない。


そこについて覚えているのは、父に付いて山に入った時のことだということ。
父は最近はあまりしなくなったけれど、昔はよくキノコや山菜採りに山に入る人だった。私は覚えが悪かったので収穫に貢献することはほとんど無かったけれど、誘われれば付いていって、そうした中で山での作法や知恵のようなものを教わった。
その日は少し深く山に入ったので、2人が座れるほど大きな切り株のある1メートル四方くらいに拓けた場所で缶コーヒーを飲んで休憩した後、父は待っているように言い置いて一人で歩いていった。
私は座ったまま、父の落ち葉を踏む足音に耳を澄ましていた。その音が聞こえなくなったら、他の音が聞こえだした。姿は見えない小さな生き物がたてる小さな物音。見回しても周りは木の幹や葉や草や蔦が埋め尽くして見通せはしない。明るく差し込んでいる太陽の光も葉に遮られて緑に透けた光。見上げても空色は見えない。
不安は全くなかった。父が戻ってくることに疑いがなかったから。ただし父が戻るまでそこから一歩も動かなかった。遭難する危険があるし、自分がこの場所にに居るのは帰り道の目印のためでもあるからだ。
近場の音に飽きると、今度は鳥の声を追った。何の鳥かは分からないけれど、どこまで遠くの鳥の声を聞き取れるか耳を澄ました。そうすると、やはり鳥は鳴き声でコミュニケーションをとっているのが良く分かった。どこかで声が立てば、余所から同じ種の声が返るのだ。
鳥の声に飽きたら、次は風。風は背後遠くから梢を揺らして樹上を通り過ぎていく。波のように何度も何度も、やってきては頭上を通り過ぎ去って、間を置いて、またやってきては去っていく。どれだけ遠くの風を聞き、どれだけ遠くまで追っていけるか、と遊んでいた。
そうして遊んでいる内に、遠くから落ち葉を踏む足音が聞こえてきて、近付いてくる足音に耳を澄ます。そうして顔を出す父に「おかえりー」と言ってへらりと笑うのだ。


そんな記憶と景色。


確かにこの景色を思い出すと、落ち着きを取り戻して安心する。
社会でなく世界に軸足を戻せる。
だから今でもそのように耳を澄ます。広く広く音を拾い集めるように、それでいて一点に集中するように。


まあ、ホントに昔から一人遊びは得意なのである。